自己啓発本の森を歩く〜カーネギーを超える本はあるのか??〜

同じような自己啓発本がなぜ多いのか?自己啓発本は何を教えてくれるのか?自己啓発本はなぜ売れるのか?なぜ自己啓発本の内容を実践できないのか?自己啓発本を読みながら考える

自分らしく生きるための権力論

 

 

幸福になるために必要ながら、構築するのが難しいのが人間関係 

 

 

スポンサーリンク

 

 

個人の幸福感は少なからず人間関係の満足度に左右される。幸福感と言うと大げさであれば、日々の生活や仕事での快適さは人間関係によって、良くもなれば悪くもなる。日々のストレスの多くは人間関係に由来すると言ってもいい。アドラーは人間関係が幸せになるためのキーと言っているわけだから、それこそ人間関係をいかに形成するかは非常に重要な問題と言える。

 

しかし、この人間関係の構築というのが厄介だ。何が最も厄介かと言えば、相手の脳みその中身が読み取れないからだ。相手とコミュニケーションを取るが、相手の意図が発言として常に表出されるわけではないし、表出された言葉が全て相手の本心とは限らない。意図の伝達について、岡本は以下のように整理している。

 

ことばによる発話によって話し手から聞き手に何かが伝わったときに、半しての意図をどの程度示すかに関して、意図が明確な場合から、全く意図がない場合まで色々なケースがあるだろう。それを次のように分けてみる。話し手が心に抱いたことが聞き手に理解される場合に関しては、次の四パターンがある。

①表現通りにはっきりと 分からせる(表意を意図明示:伝達意図、情報意図あり)

②推測を通じてはっきりと分からせる(推移を意図明示:伝達意図、情報意図あり)

③それとなく示して推測させる(隠意を暗示:伝達意図なし。情報意図あり)

④伝えるつもりがなかったのに、伝わってしまう(見破られ:伝達意図、情報意図なし)

話し手は自分の意図をこのように色々に捉えているし、聞き手も話し手の意図をいろいろに解釈するだろうというわけである。

(下記書籍、102-103頁)

 

悪意の心理学 - 悪口、嘘、ヘイト・スピーチ (中公新書)

悪意の心理学 - 悪口、嘘、ヘイト・スピーチ (中公新書)

 

 

相手の意図が言葉ですべて表明されるのであれば人間関係はだいぶ楽になるに違いない。ギスギスした関係になる可能性もありうるが、相手が何を考えているのか深読みする必要はなくなる。相手が何を考えているか正確に読み取れず、本心では自分のことを嫌っているのではないかとか、いろいろ勘ぐってしまうからこそ人間関係は時に重荷になるし、そこから離れたくもなる。他方で、どんな相手・状況でもああだこうだ考えずに自分の立場を貫けるなら、それはそれで楽に人生を生きられよう。

 
自分らしくいるために

はてブロもそうだが、最近は自分らしく生きたいという意見が多い。

 

私も自分らしく生きたいと思う。できることなら。

 

そもそもどういう状態が自分らしいといえるか、という根本的問題があるが、とりあえずここではその問題はさておいて、人間関係構築は大変という大前提を踏まえた上で、どうすれば自分らしく生きられるのだろうか少し考えたい。

 

自分らしく生きるためには、相手から自分らしく生きることに同意してもらわなければならない。しかし、全ての人が自分らしく生きようとすればかならず摩擦が生じるだろう。摩擦が生じた場合、どちらの自分らしさを優先するか決めなければならない。

一つはそもそも摩擦を避けるために完全なる孤独を選択することだ。摩擦は人間関係によって生じるわけだから、人間関係を断てば自ずと摩擦も消滅する。

人間関係を維持しながら自分らしく生きるにはどうしたらいいか。上にも書いたが、そのためには相手から自分らしく生きることに同意してもらわないといけない。特に自分らしく生きることが、相手の自分らしく生きることを阻害する場合、自分が自分らしく生きることを優先してもらわないといけない。

そのためには権力関係において自分が相手より優越していることが必要である。別の言い方をすれば、相手が自分に依存しているときに、相手からの譲歩を引き出せる。相手がこちらを必要としているのだからこそ、こちらのワガママを聞き入れてくれるのである。

たとえば、売れっ子作家や芸術家のようにその人でないと出来ないことがあると、相手は自分に頼らざるを得ないため、その人は自分らしさを貫きやすくなる。

 作家や芸術家には破天荒な性格の人がいて、それはだいたいその人の天才性を示すエピソードとして語り継がれるが、その人がそうした振る舞いを貫き通せたのは、発注者がその人以外に頼める人がいないから、様々な理不尽を耐えたのである。その作家や芸術家が自分らしく振る舞えたのはそれを相手が許容せざるを得なかったという権力関係が存在することを忘れてはならない。

 

とすると、自分らしく生きたい人がどうすればいいかといえば、その人に頼まざるを得ないような能力や価値を獲得するか、自分より劣る人たちで構成されたコミュニティで生きることを選択するかのいずかになろう。前者のほうがより前向きとも言えそうだが、鶏口となるも牛後となるなかれ、という諺があることからすれば、後者の生き方も十分検討に値するといえそうだ。

 

前者を選びたいのなら、余程の天才でもない限りかなりの努力が必要となる。したがって、もし、自分らしく生きたいという意味が、嫌なことや大変なことはしたくないという意味であれば、その人は自分らしく生きたいという願望をさっさと諦めるべきである。

 

 

スポンサーリンク

 

 

幸福論:生化学vs認知論

 

 

スポンサーリンク

 

 

幸福の個体差

自己啓発本を読むのは成長したいからであり、最終的にはそれによってよりよい人生を歩んだり、幸福になりたいと思うからである。

 

しかし、自己啓発本を読んで同じことを実践して、同じだけの達成度を得た場合、人は同じだけの満足感や幸福感を得るのだろうか。要するに人による「個体差」はあるのか、仮にあるとしたらその個体差をもたらす要因は何であろうか?

 

自己啓発本ではないが、本書は幸福についていろいろ考えさせられることを書いている。

 

 

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

 

 幸福論:生化学と認知論

ここに二つの対立する軸がある。すなわち生化学と認知論の二つである。

 

生化学は人が幸福をどう感じるかは遺伝子的に決定されていると主張する。仮に幸福度を10段階に分けられるとして、割に幸福度8とか9とか高いレベルで感じやすい人と、外から見ればとてもいいことがたくさん起きているにもかかわらず、幸福度を5程度にしか感じられない人がいるという。幸福感を得難い遺伝子的特徴を持つ人間は宝くじに当たったり、世界平和のような偉業を成し遂げたり、世界でもっとも美しい(ハンサム)なパートナーと結ばれても得られる満足感は乏しいことになる(Kindle版 pp.7312-7401)。

 

この考えは自己啓発本の存在意義を奪うアイデアだ。結局何をやろうが遺伝子的に幸せになれないことがプログラミングされており、そのプログラムを書き換えられないのであれば、いつか自分は変われると信じて努力することにもはや何の意味もない。

もし解決法があるとすれば、それは遺伝子治療であり、技術的に可能ならば、手術によって遺伝子自体を完全に変えてしまえばいいということになる。それが出来ないとしても、セロトニンドーパミンのような人を快楽にさせる成分を注入させてしまうのが最も確実で手っ取り早い方法だ。人間の自由意志に基づいて努力させるなんてことは迂遠で不確実な方法である。

 

普通は自分の遺伝子がどの程度幸福を感じやすくできているなんて知り得ない。そのため、幸福感を得難い遺伝子を持つ人は普通の刺激では幸福を感じられない以上、より強い刺激を求めるようになる可能性が高い。

 

数多の宗教家は生物学的には遺伝子的に幸福感を得難い人たちだったのかもしれない。彼らは人によっては富もあり、モテたかもしれず、趣味もあってとてもリアルが充実していたことだろう。しかし、それほどまでに恵まれていたとしても、なかなか幸福感を得られないとすれば、彼らはその理由を探そうとするわけで、よさらなる刺激を求めて、極限の飢餓状態になろうとしたり、痛みを伴うようなことに走ったのやもしれない。刺激が必要だからこそ、エクストリームな人生を追及したとも考えられそうだ。

 

他方で、人間の認知や意義付けが幸福感に影響するという立場もある(Kindle版pp. 7415-7445)。

本書では子育てが例として挙げられていて、子育てに伴う活動、ご飯食べさせたり、排泄物を交換したりといった作業一つ一つを見ると、けっこう手間だったりして人の幸福感を下げそうなことが多い。それらに要する時間的総量もけっこうなものになる。

 

では、子育てしている人の不幸感が増大するかといえばそうではなく、得てして自分の幸福は子供のお陰と考えている。単に投入した時間を積み上げれば幸福感を減損させても不思議でない行為の積み重ねにもかかわらず、活動によっては不幸どころか人が幸せにするのだ、と逆説的なことが言えそうである。

 

この矛盾は何なのかといえば、幸福というのは活動それぞれから得られるプラスの感情、マイナスの感情の足し算で決まるのではなく、自分が意義があると考えていることに充足感があれば幸福と感じるということになる。子育てで必要な一つ一つの活動は外部から見れば不快に思うようなことでも、当人たちが子育てに意義を見出していれば、当人たちの幸福感が高まるのである。人生の意義を見出し、その意義に沿うような感覚が得られればその人の幸福感は高まるのである。

 

客観的な幸福と主観的な幸福 

実際はこの二つの中間あたりに真実があるのだろう。遺伝子的に決定される部分があってその人の幸福感認知範囲が限定されていたとしても、認知的な満足感によって、範囲の中でより高い幸福感を得やすくなる。

遺伝子的に幸福度を4〜7で感じやすい人がいるとした場合、その人が4の幸福度を得やすいか、それとも7の幸福度を得やすいかは、その人の主観的な要素に委ねられるのだ。

 

幸福とは客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まる(Kindle版 p.7249)

 

したがって、主観的な幸福感を追及する努力は決して無駄ではないということになる。あとはそれがいかにして獲得できるかだ。

 

その点、現代社会は中世よりも不利である。生活環境だけを見れば現代の日本のほうが圧倒的に幸せといえる。しかし、幸福感という点ではどうであろうか。かつては幸福を自分の自由意志で判断する必要はなかった。代わりに宗教の教えがあるべき人間像を提示してくれた。聖人のようにはなれなくても、経典の教えに従えば幸せになれたり、人間として立派になれるとされたのだ。

 

だが、現代は宗教の教えを信じていれば事足りるほど単純な世界ではないし、宗教を信じない自由が与えられている。自由を得た反面、われわれは自分たち自身で幸せを見つけなければならない。

 

見つかればいい。しかし、幸せは自分自身で判断すればいいと言われても本当に自分が幸せかどうかを判断する基準なんてないからわれわれは迷うし、不安になるのだ。早くセロトニンドーパミンをうまく打って簡単に幸せになれる社会が来ればそれが一つの理想郷なのかもしれない。

 

ただその社会が到来するまではわれわれはあれやこれや悩んで、自己啓発本を手にとって、それでもなお悩むのだろう。

 

人生は悩みだらけ。そう割り切ることも必要なのだ。現時点でわれわれは幸福になるために遺伝子手術はできないのだから。

 

 

mtautumn.hatenadiary.jp

 

 

mtautumn.hatenadiary.jp

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

自由と承認の間

 

 

山竹伸二氏『「認められたい」の正体』

今回読んだのは山竹伸二氏の『「認められたい」の正体』である。

 

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

 

 

幸せと人との関わりとその葛藤

 幸福のかたちは人それぞれあるだろうが、良くも悪くも人との関わりがその人の幸福感に大きな影響を与えることは間違いない。そして、願わくば世間から、さらに言えば自分が大切にしている人からあなたは素晴らしいと承認してほしいと思っている。

 

スポンサーリンク

 

 

「人からの承認」、これが幸福感に大きな影響を与えるわけだが、現実世界において自分の理想通りに承認を得ることは難しい。そもそも誰だって他人に常に集中力100パーセントで関心を向けられるわけではない。自分だって、常に他人ばかりを気にかけているわけにはいかないから、仮に誰かから褒めてほしいって求められていても自分がそれに応えているとは限らない。

 

こういった人間のある種の能力的な限界に加えて、そもそも相手や社会から承認を得るには承認を求める側の努力が必要であって、ときには自分がそこまで気の進まないこともやらないといけないという問題がある。

 

承認を求めることと自分がやりたいことが重なっている場合は問題ない。しかし、そんなことはほとんどない。わかりやすい例でいえば、気に入られようとして、行きたくもない飲み会に行ったり、残業に付き合ったりすることなどはその顕著な例であり、それもたまにぐらいであれば問題ないかもしれないが、しょっちゅうでは身体も精神も悪くなろう。

 

現代の承認欲求 

別に他者からの承認を欲するのは現代だけではない。昔だって認めてほしいと思っていたはずである。では、現代と過去の違いはどこにあるかといえば、それは承認獲得の容易さである。

山竹は次のように言う。

 

なるほど、社会に共通した価値観が浸透し、個人の役割も固定されている場合、そこに生きる人々はその価値観に照らして自らの価値を測り、その役割にアイデンティティを見出している。多くの人間が同じ価値観を信じている社会では、その価値観に準じた行為は周囲から承認され、異を唱えられることはない。したがって、そのような行為において他者の承認を強く意識する必要はなかった、と考えられる。

たとえば、キリスト教の価値観が浸透した社会なら、神を信仰する敬虔な態度は周囲から承認されるはずだが、当人は周囲の承認など気にせず、その価値観を信じ込んでいるだけだろう。いかに苦しい生活を強いられていても、そこに承認不安は生じない。

しかし、社会共通の価値観が存在しなければ、人間は他者の承認を意識せざるを得なくなる。誰でも自分で信じていた価値観や信念、信仰がゆらげば、自分の行為は正しいのか否か、近くにいる人に聞いてみたくなるものだ。自己価値を測る基準が見えなくなり、他者の承認によって価値の有無を確認しようとする。こうして、もともと根底にあった承認欲望が前面に露呈し、他者からの直接承認を得たいという欲望が強くなる(132頁)

 

多様な価値観があり、かつどれを信奉するか問われないということは、自分で好きに選べるということである。

たしかに自分で選べるというのは素晴らしいことだと思う。しかし、実際に選ぶのは大変だ。2種類しかメニューになければ選ぶのは簡単だが、 無限のメニューを提示されればかえって何をどの基準で選んでいいかわからなくなってしまう。

 

自分の選択の正しさを信じるのはとても難しいことだ。さらにいえばどんな選択をしても、人生において苦難に直面しないことなんてない。もしそんなことがあるとすれば、それはよほどの超人か、人生何にも挑戦しなかったから、結果苦難に直面しなかったにすぎない。

 

苦難に直面すれば誰だって自分の選択を信じられなくなる。それでも神との対話によって正しい道が示されるなら、その葛藤はやがて解決しよう。しかし、現代では神はもはやその圧倒的な存在感を失った。自分が不安を抱いた時、それを解消してくれるのは得てして傍にいる人たちからの承認である。

反対に言えば、承認が得られなければその不安感は解消されず、いざというときに承認を得られるよう、周囲の人への心配りが必要となり、それが度を過ぎれば負担となって、むしろ自分が抑圧されてしまう。

 

いわば、承認と自由はシーソーのようなもので、いずれかに重みがかかりすぎればバランスが崩れてしまう。真ん中の承認と自由が均衡する点に常に位置できるようになればこの葛藤から脱出できるのかもしれないが、現実には承認と自由の間を行ったり来たりして、シーソーが絶えずどちらかに傾いている状態なのだろう。

 

均衡点に居続ける方法を見つけるか、それとも行ったり来たりしている現実をむしろ積極的に受け入れるのか。どちらの選択がより人を幸福にするのだろうか。

 

スポンサーリンク

 

 

幸福であるためにはツライ道を歩く覚悟が必要なのか??

 

岸見一郎『幸福の哲学』 

今回読んだのは、アドラー心理学で話題の岸見一郎氏の著作である。

 

幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵 (講談社現代新書)

幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵 (講談社現代新書)

 

  

自己啓発本を手に取る理由

自己啓発本を手に取るのは現状をよくしたいと思っているからだ。自分の能力を向上させたり、人間関係をどうにかしたり、自分の感情をコントロールできるようになりたいのは、そうすることで様々なストレスから解放され、(それが仮にあるとして)本来あるべき自分を獲得し、換言すればそうなることで幸せな人生を歩みたいと思うからだ。

 

スポンサーリンク

 

 

幸福であるというのはある時点での状態を指す。他方で、そこに至るまでの道のりやそれを維持するための努力はプロセスである。従ってある時点で幸福を達成しても、そこまでの道のりが幸福に満ち溢れているとは限らないし、一度ある時点で幸福になったとしても、その状態が永遠に続くことは約束されないとも考えられる。

 

幸福であるには、自分が自由意志に基づく選択でそれを成し遂げなければならない。しかし、自由意志に基づく選択が幸福をもたらすとは限らない。人間は選択に際してあらゆる情報を入手し、無限の時間を使って、あらゆる選択肢を検討して決定できるわけではない。それゆえ選択がうまく行くとは限らないし、むしろ失敗することのほうが多いかもしれない。

 

自分で選び、たとえそれが不幸を招いたとしても、その責任を自分で納得して受け入れるというのは大変なことだ。だからこそ、人はその責任を回避するために運命論を信じたり、外部のせいにしたり、他者に選択自体は委ねたりすると、岸見はいう。

 

自分で選ぶことにはリスクがあると知った人は、主体的に選択することを断念するか、ためらうだろう。そして、誰かが決めたことに従う。そうすれば、後に何か問題が起こったとしても責任を免れることができるからである。

自分で選択したことがうまくいくとは限らない。むしろ、うまくいかないことを予想するからこそ、自分では選択しようとしない人がいるのだが、私には、後になって実際うまくいかなくなった時、他者に選択を委ねたためにうまくいかなかったのでは、そのことに納得できるとは思われない。自分で選択したことであればこそ、どんな結末になってもそれを受け入れることができる。

(中略)

人は過去に経験した出来事や、まわりからの影響を受けるだけの存在(reactor)ではない。自由意志で自分の人生を決めていくことができる存在(actor)である。間違うことがあっても自分の人生を選び決められると考えることで、人間の尊厳を取り戻すことができるのだ(113-114頁)

 

尊厳と快適さと幸福感

しかし、尊厳と快適さが両立するとは限らない。たとえば日本がものすごい資源国だったとして、そして常に名君に治められるとして、誰も税金を払わず、社会保障はおろか、あらゆる公共サービスは無料で、日々の生活や娯楽まで政府が保証してくれる、しかし、その代わり政治への参加権はないと仮定しよう。

 

絶対に快適で、おそらく幸福感も得られよう。しかし、自分の生活にも関わりある政治に参加できないのはある種の自己決定権を奪われるのと同義であり、人としての尊厳を失うのだ、と主張する人も現れよう。

 

実利的な幸福と尊厳的幸福があり得ようが、後者はいってみればマトリックスの世界でモーフィアスに無理やり現実の世界に連れてこられたアンダーソン(ネオ)のようなものであり、尊厳はあるかもしれないが、快適な生活とは程遠い。

 

 

幸せになるために自己決定は必要だ。しかし、その決定が正しく行えるとは限らないという。いずれは幸福になれるかもしれないが、そこに至るまでには多くの自己選択が伴うのであり、おそらくは自己選択による失敗と苦痛も伴うのだ。仮に幸福というものがあっても、そこへ至るまでの道のりは辛く厳しいものになる。

 

その覚悟なく幸せを語るのは、むしろ幸せにたどり着けないことを言い訳に、いつまでも自分を甘やかす行為なのだろう。まだ本来の自分じゃないんだから、しょうがないじゃないかと。

 

幸せとは逃避の先にはなさそうだ。幸福になるには自分の選択を受け入れるだけの強さが必要なのだ。

幸せとは甘えや居心地のよさではなく、たゆまぬ努力と行動の先にしかないのやもしれない。

 

しかし、そうであればなかなか幸福までの道のりは遠いなぁ、と途方に暮れてしまう。「ただ阿弥陀如来の働きにまかせて、すべての人は往生することが出来る」とする浄土真宗的な幸福到達論はないものだろうか??

 

浄土真宗 - Wikipedia

スポンサーリンク

 

 

ストレスは克服すべきか、逃げるべきか、耐えるべきか

  

ストレスフリーな状態を望むなるがゆえに 

ストレスの発見によって人はストレスを感じるようになったとはよく言ったものですが、さらに言えばストレスが悪だと思えば、いかにそれを克服するか、もしくはいかにそれを感じずに過ごせるかに思い悩む=ストレスを感じることになるという、やや本末転倒な事態に陥るといえます。

 

ストレスの原因は身体的なものに由来する場合もあれば、心理的要因に由来する場合もあります。マインドフルネスや座禅が昨今はやるのも、人がいかにストレスから解放されたいと願っているかの表れといえるでしょう。社会には多くのストレス源が存在します。そして、われわれはストレスを感じない状態=善なる状態だと思っています。

 

スポンサーリンク

 

 

どうやったらストレスフリーな状態に達し得るかを考えたとき、最もわれわれに苦痛を与えると考えられている存在、すなわち会社からの脱退をわれわれは夢想してしまいます。それゆえ、ノマドやブロガー、フリーランスといった存在への憧憬が生まれるというわけです。しばしばストレスは対人関係から生じる以上、人との関係性の濃度を減らせるそれらの職種への憧れが生まれるのも道理です。

 

もっとも、多くの人がそれらの職種になればなるほど、そこはブルーオーシャンではなく、競争の激しいレッドオーシャンに成り果てるでしょう。レッドオーシャンで稼ごうと思えば、競争に勝つための努力や工夫が必要となり、どの過程ではしばしば苦痛やストレスを感じることもあるでしょう。

 

結局、われわれはストレスから解放されることは難しいと思われるわけで、それがいやであれば、外部が強制的にわれわれをストレスから解放してくれるのを期待するしかありません。さながら、伊藤 計劃の『ハーモニー』の世界といったところでしょうか。もしくは『マトリックス』的世界。

 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

ハーモニー [Blu-ray]
 

  

 

私はモーフィアスが現れても仮想現実の世界のままのほうがいいと答えたいタイプですので、AIや遺伝子組み換え技術、ロボット、VRの発達によって働かなくてもいいし、自分のみたい夢を見せてくれる世界が早く実現してほしいと心底願ってします。しかし、現実にはまだ世界はそこまで至っていません。生まれるが少し早かったかと少し悔やんでいます。

 

というわけで、残念ながらわれわれはもうしばらくストレスと向かい合わなくてはならない時代を生きなければなりません。

 

では、ストレスにどう対処すべきか。

方法は大きくわけて3つあるでしょう。すなわち、克服する、逃げる、耐える。

 

メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力

今回読んだのはこの本。

 

メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力

メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力

 

 

この本自体は一流のアスリートの名言を紹介して、筆者が仕事でもこの考えは応用できると2、3行で補足している程度なので、時間が有り余っていない限りあえて読む必要があるとは思いませんが、しかし、アスリートの言葉や生き方を読んで思うのは、彼らは苦痛やストレスをある程度前提または許容しているように感じられます。少なくとも、ストレスから逃げるというよりは、前進する過程で必然的に伴うものと捉えていて、克服ないしは耐えることを選択しているように思われます。

 

好きなことをしているから耐えやすいという側面はあるでしょう。とはいえ、夢ないし目標を達成するには並外れた努力を必要とします。その過程では苦痛やストレスを感じる時間のほうが喜びを感じる時間よりも正味で見れば長いかもしれない。

 

そうした強いストレス下にあるにもかかわらず前に進めるのは、そもそもの前提として「ストレス=悪」ではなく、「ストレス=ある程度しょうがないもの」、「ストレス=耐えるべきもの」、「ストレス=努力に際して付随してしまうもの」、「ストレス=超えたらその先には成長が待っているもの」といった、ある種の達観や受け入れがあるのではないでしょうか。

 

この本の副題は「Mental Toughness of Medalist」です。Wikipediaのtoughnessの定義を見れば、タフネスとは強さとしなやかさのバランスが重要で、エネルギーないし衝撃を受け止める上での力を意味する単語といえます。そこには逃げるという概念は含まれていません。

 

In materials science and metallurgytoughness is the ability of a material to absorb energy and plastically deform without fracturing.[1] One definition of material toughness is the amount of energy per unit volume that a material can absorb before rupturing. It is also defined as a material's resistance to fracture when stressed.

Toughness requires a balance of strength and ductility.*1

 

筆者がどこまで意識的にこの副題を付けたかはわかりませんが、アスリートを観察した結果、アスリートはストレスと向き合っていると筆者が感じたからこその副題なのだと思います。

 

ストレスから解放されたいというのはわれわれの見果てぬ夢ではあるのですが、(少なくとも当面は)どの世界にも成長や努力は求められ、どんなことでも楽しい局面ばかりではないとすれば、ストレスは「悪」ではなく、ときとしてそれは避けられず、耐えること(さらに欲を言えば克服すること)も必要という達観が必要なのかもしれないですね。

 

 

スポンサーリンク

 

 

実践のお手本として〜池上彰『学び続ける力』〜

 

池上彰『学び続ける力』

今回は池上彰氏の『学び続ける力』です。

 

学び続ける力 (講談社現代新書)

学び続ける力 (講談社現代新書)

 

 

著者自身が「おわりに」で認めるとおり、本書は教養論ではありません。

 

「教養とは何だろう」ということを、大学生の頃からずっと考えてきました。

(中略)

読み終えた皆さんも感じておられるように、(本書は)教養論ではなく、勉強することの意味や、学び続けることの意味について考える本になりました(pp.183-184)(カッコ内筆者)

 

というか、むしろ池上氏のエッセイと言ったほうが近いかもしれない。

 

教養についての真髄を探ったり、その本質をえぐったりする本、というのは、私にはどうもそぐわないようです。できるだけ、自分がしてきたこと、学んできたことの延長で、背伸びをせずに、お話ししたつもりです(p.184)

 

したがって、池上氏が好きでもないかぎり、ふ〜ん、で終わる可能性は高いと思われます。

 

その意味では、もうすでに何冊もビジネス書や自己啓発本を読んできました、という人にはかなり物足りなくなるはずです。

 

スポンサーリンク

 

 

実践の人、池上彰 

では、本書から得られるものはないかといえばそうではありません。

 

本書から気づかされる点、すなわち、いいことは知ったとしても実践しないと意味がないということを再確認させられます。

 

本書を読めば、池上氏がいかに実践の人かがわかるでしょう。

 

一年間で1000時間のヒアリングマラソン(1日換算3時間)をやったり、記者時代の夜回りの時間に英語を勉強したり、手持ち無沙汰がいやで読書したり、出張の移動時間に本を読んだり、時間を無駄にせずに勉強をしている。

 

池上氏の本のいいところは、われわれはテレビやラジオを通して池上氏を知ることができるという点であり、それゆえ、賛否両論はあれど彼が解説者としてすごい人間であることを知っているという点ではないでしょうか。

 

偉大さを知っている人から言われたほうが納得できる

巷にはたくさんのビジネス書や自己啓発本があり、その多くには何らかのいいことが書いてあります。

とはいえ、その言葉に説得性を感じるには、同じことであっても、氏素性も知らない人よりは、すでにその人が優れていることを知っていて、この人に言われるのなら納得!と思えるほうがいいと思いませんか。少なくとも、私はそう。よく偉そうなこと書いてあるけど、で、お前は何者なの?と、この手の本を読んだときによく思います。こんなことを上から目線で言えるほど、お前はすごいやつなのかと(じゃあ、お前はどうなのだと逆質問されたらぐうの音も出ませんけどね)。

 

その点、池上氏であれば文句がある人は少ないでしょう。少なくとも私よりは素晴らしい人であり、努力を重ねてきたことは疑いない。

 

彼はわずかな空き時間も無駄にせずに本を読むし、ノートの取り方も工夫する。新聞もしっかり読む。

 

読書、記録の取り方の工夫、新聞の重要性、やり方にはいくつかのバリエーションがあり得るでしょうが、これらの行動を推奨するビジネス書や自己啓発本は数多いといえます。

 

しかし、実際にその教えを実践できている人はどれくらいいるでしょうか。

 

同じことをしたら池上氏のようになれるとは限りませんが、彼の実際の人物像を容易に知れるがゆえに、この本に書かれたことを実践したときの到達点のイメージが湧きやすいように思われるのです。すなわち、これくらいの努力をすれば、池上氏に近づけるというイメージが思い浮かべやすい。

 

たとえば、空き時間に本をとにかく読むというのはすぐに出来そう。ショーペンハウエルを引用して、本を単に読むだけではダメと釘は刺していますが(pp.146-150)、そうであれば、ブログというのは気軽に始められるアウトプットの場としてもとてもいいように思います。

 

アウトプットを意識すれば成果も高まるはず。

 

今日の池上氏の活躍ぶりを見れば、ここまで愚直にやり続けることが大事ってことがよくわかる。

 

社会人にはなかなか難しかろうし、池上氏が実践していることの全てが本書に網羅されているわけでもないでしょうが、本書に書かれていることを実践すれば池上氏くらいに、さらに負荷をかければもっとすごい人になれるかもしれないというモチベーションが湧くのではないでしょうか。

スポンサーリンク

 

 

ポジティブ思考かネガティヴ思考かはどこまで気にすべきか?

 

相原孝夫『ハイパフォーマー彼らの法則』日本経済新聞出版社、2014年

今回読んだのはこちら。

 

ハイパフォーマー 彼らの法則 (日経プレミアシリーズ)
 

 

一言で言えば、時間が有り余っているのであれば、読んでもいいのではないでしょうか、といったところでした。

 

本書の目次は以下のとおり。

 

第1章 前向きなあの人が、なぜ結果を残せないのか

第2章 良くも、悪くも、すべては循環する

第3章 期待の新人は、なぜ「平凡な社員」になったのか

第4章 失敗から学ぶ彼らにとって、仕事は「ゲーム」だ

第5章 彼らは、とにかく「小さな行動」を続ける

第6章 彼らは身近な人を支援し、成功を助ける

第7章 彼らは、たまたまの成果を喜ばない

第8章 彼rは、環境が変わっても瞬時に溶け込む

終章 職業人生を終える時、どういう思いを持ちたいか 

 

ここでは、本書全体というよりも、「ポジティブ思考」の良し悪しを少し考えてみたいと思います。

 

ポジティブ思考の良し悪し

「ポジティブ思考」は必ずしも良くないとする点が筆者としてのオリジナリティの一つなのだと思います。

 

まず誰もが思い浮かぶのは、世の中に数多く流布している「成功法則」の類ではないだろうか。成功するための法則であるから、それに適った行動をとれば、好循環に入ることができ、成功に至るはずと普通は考える。

しかし、本当にそうであろうか。成功法則の中で最も多く言われていることの一つは、間違いなく「ポジティブ思考」であろう。

(中略)

しかし、様々な事象を見てみると、ポジティブ思考が必ず良い結果を招き寄せるとは限らないことが分かる。

よく指摘される点としては、失敗した時の受け止め方にポジティブ思考の人とネガティブ思考の人の差が表れるという点がある。

「あの時、別の方法を採っていたらどうなったいただろう?」という、「もし〜だったら・・・」式の考え方、心理学で言うところの「反事実的思考」をポジティブ思考の人はしたがらない。

ネガティブ思考の人は

「もし別の方法を採っていたら、うまくいっていたかもしれない」と考える。この考えは次回への教訓となるため、次のいい結果をもたらす可能性が高まる。ポジティブ思考の人は、「今回採った方法が最善であったに違いない」と考えてやり過ごす。こうした考えは、あまり落ち込まずにすむという点においては有効だが、物事を改善し、次回以降のパフォーマンスを高めたい場合にはあまり役には立たない(25-26ページ)

 

本書を通して思うのは、筆者のポジティブ思考への偏った見方。

 

たとえば、上記の一例はポジティブな人というよりは、単に思慮の浅い人ではないでしょうか。筆者のポジティブ思考の理解の仕方がやや表面的というか意図的にポジティブ思考を過小評価しているように感じられます。

失敗したり叱られたりしても、そこから学べることもあるさ、と考えることをポジティブ思考と捉える人も多いはずです。とすると、そもそも筆者のポジティブ思考の定義自体がやや恣意的というか、すなわち、批判しやすくポジティブ思考を自分なりに定義しやすくしてしまっているように感じます。ポジティブ思考を自分で批判しやすく加工しておいて、それでポジティブ思考はよくないというのはややマッチポンプ的というものでしょう。

 

そもそも、ポジティブ思考をどう定義すればよいのでしょうか。さらに言えばポジティブ思考かネガティヴ思考かはどこまで重要な要素といえるのでしょうか?

 

たとえば本書だと、93ページにポジティブ思考の人は「ポジティブ思考を励行している人などは、「失敗は誰にでもある。早く忘れてすっきり切り替えよう」と思う」人とあります。他方、ハイパフォーマーは失敗から学ぼうとし、経験重視で成長志向であると筆者はいいます。

ここでふと思うのは、他の本だと失敗から学ぼうとするのはポジティブ思考の一つとされることもあるということです。普通であれば失敗して落ち込むところ、失敗から得られることがあると考えたら、それゆえ失敗をむやみに恐れないというのはポジティブ思考ともいえます。

 

さらに筆者はあるアメリカのジャーナリストの著書を引用して、アメリカはポジティブ病と筆者は言って、ポジティブ思考のマイナス面を強調します。

 

ポジティブな思想が社会に深く根付いているにもかかわらず、アメリカの状況、特に経済・労働環境は悪化の一途を辿っている。それはなぜか。「現実を直視しない、直視させない、そういった安易な楽観主義、ポジティブなものの考え方の蔓延こそが、アメリカのビジネスを凋落させ、個人の経済格差をいっそう広めてきた」とエーレンライクは言う(34-35ページ)

 

確かにそういう一面はあるのでしょう。しかし、本書がハイパフォーマーの話をしている以上、パフォーマンスという観点からポジティブ思考がいかに影響するかという視点から分析する必要があるでしょう。そして、そうした場合、果たして本当にポジティブ思考が筆者が主張するようによくないものなのか、疑問が湧いてきます。

 

というのも、経済開発協力機構(OECD)の統計では日本の生産性はアメリカの6割程度にとどまるわけで、結局のところ、社会全体としてみれば、ポジティブなほうがハイパフォーマンスともいえそうだからです。

 

Productivity statistics - OECD

 

こうしたデータを踏まえると、結局のところポジティブ思考な国、アメリカの方がいいといえます。筆者が

 

行動の原動力という意味において、ポジティブ思考かネガティブ思考かは重要なポイントなのか?

 本書の第5章では行動することが大事と説かれています。これはとても大事でしょう。行動すれば何かしらの結果が得られ、その結果を土台にさらに先に進めます。行動+経験にまさるものはないでしょう。当然、行動すれば失敗という結果が出ることもあるでしょうから、失敗を想像すれば行動する気が萎えてしまう場合もあるでしょうが。

 

本書ではネガティヴ思考がなぜ失敗したのかという原因分析に向かわさせ、次の改善につながると言います。ポジティブ思考だと失敗を気にしないので原因を深く探索しないと。

 

しかし、行動することが大事といった場合、その原動力がポジティブ思考なのかネガティヴ思考なのかはそこまで重要ではないのではないという気がしてきます。どういう動機であれ、行動し、経験し、結果を振り返ればいいわけで、ポジティブ思考で失敗からも学べることもあるさ〜と明るく原因分析をするか、次の失敗を回避したいがために原因分析をするかはさほど大きな違いがないというか、もはやどちらでもいいと思うのです。

だから、本書で随所にポジティブ思考が批判されていますが、われわれにとってはポジティブ思考かネガティヴ思考には拘泥せずに何はともあれ行動してみるかという理解で十分と思われます。

 

もしポジティブ思考かネガティヴ思考かで原因分析の質に大きな差が生じるのだとしたら、この違いは重要ですが、本書ではそこらへんは掘り下げておりません。 

しかし、たとえ原因分析の結果に差がなかったとしても、われわれの気持ちのあり方には大きな差をもたらします。仮にネガティヴ思考で十分に高いパフォーマンスがすでに上がっているのだとしても、ネガティヴ思考から生じる心理的なストレスこそ実はなんとかならないか、と多くの人が思ってるんですよね(笑)

 

ネガティヴ思考の人が、ネガティヴ思考だとメンタル的にツライと誰かに相談したとき、ネガティヴ思考だといろいろ考えるからいい結果につながるからいいことじゃん!と言われてもあまり慰められた感じがしないこともしばしばです。

 

パフォーマンスかどうかも重要ですが、パフォーマンスに至るまでのメンタル的なストレスを何とかしたいと思ってる人も多いではないでしょうか?

 

その回答は現在持ち合わせていませんが、とりあえずはポジティブ思考かネガティヴ思考は実はさほど大きな意味はないかもしれないということにしておきましょう。