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自己啓発本の森を歩く〜カーネギーを超える本はあるのか??〜

同じような自己啓発本がなぜ多いのか?自己啓発本は何を教えてくれるのか?自己啓発本はなぜ売れるのか?なぜ自己啓発本の内容を実践できないのか?自己啓発本を読みながら考える

自由と承認の間

 

 

山竹伸二氏『「認められたい」の正体』

今回読んだのは山竹伸二氏の『「認められたい」の正体』である。

 

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

 

 

幸せと人との関わりとその葛藤

 幸福のかたちは人それぞれあるだろうが、良くも悪くも人との関わりがその人の幸福感に大きな影響を与えることは間違いない。そして、願わくば世間から、さらに言えば自分が大切にしている人からあなたは素晴らしいと承認してほしいと思っている。

 

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「人からの承認」、これが幸福感に大きな影響を与えるわけだが、現実世界において自分の理想通りに承認を得ることは難しい。そもそも誰だって他人に常に集中力100パーセントで関心を向けられるわけではない。自分だって、常に他人ばかりを気にかけているわけにはいかないから、仮に誰かから褒めてほしいって求められていても自分がそれに応えているとは限らない。

 

こういった人間のある種の能力的な限界に加えて、そもそも相手や社会から承認を得るには承認を求める側の努力が必要であって、ときには自分がそこまで気の進まないこともやらないといけないという問題がある。

 

承認を求めることと自分がやりたいことが重なっている場合は問題ない。しかし、そんなことはほとんどない。わかりやすい例でいえば、気に入られようとして、行きたくもない飲み会に行ったり、残業に付き合ったりすることなどはその顕著な例であり、それもたまにぐらいであれば問題ないかもしれないが、しょっちゅうでは身体も精神も悪くなろう。

 

現代の承認欲求 

別に他者からの承認を欲するのは現代だけではない。昔だって認めてほしいと思っていたはずである。では、現代と過去の違いはどこにあるかといえば、それは承認獲得の容易さである。

山竹は次のように言う。

 

なるほど、社会に共通した価値観が浸透し、個人の役割も固定されている場合、そこに生きる人々はその価値観に照らして自らの価値を測り、その役割にアイデンティティを見出している。多くの人間が同じ価値観を信じている社会では、その価値観に準じた行為は周囲から承認され、異を唱えられることはない。したがって、そのような行為において他者の承認を強く意識する必要はなかった、と考えられる。

たとえば、キリスト教の価値観が浸透した社会なら、神を信仰する敬虔な態度は周囲から承認されるはずだが、当人は周囲の承認など気にせず、その価値観を信じ込んでいるだけだろう。いかに苦しい生活を強いられていても、そこに承認不安は生じない。

しかし、社会共通の価値観が存在しなければ、人間は他者の承認を意識せざるを得なくなる。誰でも自分で信じていた価値観や信念、信仰がゆらげば、自分の行為は正しいのか否か、近くにいる人に聞いてみたくなるものだ。自己価値を測る基準が見えなくなり、他者の承認によって価値の有無を確認しようとする。こうして、もともと根底にあった承認欲望が前面に露呈し、他者からの直接承認を得たいという欲望が強くなる(132頁)

 

多様な価値観があり、かつどれを信奉するか問われないということは、自分で好きに選べるということである。

たしかに自分で選べるというのは素晴らしいことだと思う。しかし、実際に選ぶのは大変だ。2種類しかメニューになければ選ぶのは簡単だが、 無限のメニューを提示されればかえって何をどの基準で選んでいいかわからなくなってしまう。

 

自分の選択の正しさを信じるのはとても難しいことだ。さらにいえばどんな選択をしても、人生において苦難に直面しないことなんてない。もしそんなことがあるとすれば、それはよほどの超人か、人生何にも挑戦しなかったから、結果苦難に直面しなかったにすぎない。

 

苦難に直面すれば誰だって自分の選択を信じられなくなる。それでも神との対話によって正しい道が示されるなら、その葛藤はやがて解決しよう。しかし、現代では神はもはやその圧倒的な存在感を失った。自分が不安を抱いた時、それを解消してくれるのは得てして傍にいる人たちからの承認である。

反対に言えば、承認が得られなければその不安感は解消されず、いざというときに承認を得られるよう、周囲の人への心配りが必要となり、それが度を過ぎれば負担となって、むしろ自分が抑圧されてしまう。

 

いわば、承認と自由はシーソーのようなもので、いずれかに重みがかかりすぎればバランスが崩れてしまう。真ん中の承認と自由が均衡する点に常に位置できるようになればこの葛藤から脱出できるのかもしれないが、現実には承認と自由の間を行ったり来たりして、シーソーが絶えずどちらかに傾いている状態なのだろう。

 

均衡点に居続ける方法を見つけるか、それとも行ったり来たりしている現実をむしろ積極的に受け入れるのか。どちらの選択がより人を幸福にするのだろうか。

 

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幸福であるためにはツライ道を歩く覚悟が必要なのか??

 

岸見一郎『幸福の哲学』 

今回読んだのは、アドラー心理学で話題の岸見一郎氏の著作である。

 

幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵 (講談社現代新書)

幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵 (講談社現代新書)

 

  

自己啓発本を手に取る理由

自己啓発本を手に取るのは現状をよくしたいと思っているからだ。自分の能力を向上させたり、人間関係をどうにかしたり、自分の感情をコントロールできるようになりたいのは、そうすることで様々なストレスから解放され、(それが仮にあるとして)本来あるべき自分を獲得し、換言すればそうなることで幸せな人生を歩みたいと思うからだ。

 

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幸福であるというのはある時点での状態を指す。他方で、そこに至るまでの道のりやそれを維持するための努力はプロセスである。従ってある時点で幸福を達成しても、そこまでの道のりが幸福に満ち溢れているとは限らないし、一度ある時点で幸福になったとしても、その状態が永遠に続くことは約束されないとも考えられる。

 

幸福であるには、自分が自由意志に基づく選択でそれを成し遂げなければならない。しかし、自由意志に基づく選択が幸福をもたらすとは限らない。人間は選択に際してあらゆる情報を入手し、無限の時間を使って、あらゆる選択肢を検討して決定できるわけではない。それゆえ選択がうまく行くとは限らないし、むしろ失敗することのほうが多いかもしれない。

 

自分で選び、たとえそれが不幸を招いたとしても、その責任を自分で納得して受け入れるというのは大変なことだ。だからこそ、人はその責任を回避するために運命論を信じたり、外部のせいにしたり、他者に選択自体は委ねたりすると、岸見はいう。

 

自分で選ぶことにはリスクがあると知った人は、主体的に選択することを断念するか、ためらうだろう。そして、誰かが決めたことに従う。そうすれば、後に何か問題が起こったとしても責任を免れることができるからである。

自分で選択したことがうまくいくとは限らない。むしろ、うまくいかないことを予想するからこそ、自分では選択しようとしない人がいるのだが、私には、後になって実際うまくいかなくなった時、他者に選択を委ねたためにうまくいかなかったのでは、そのことに納得できるとは思われない。自分で選択したことであればこそ、どんな結末になってもそれを受け入れることができる。

(中略)

人は過去に経験した出来事や、まわりからの影響を受けるだけの存在(reactor)ではない。自由意志で自分の人生を決めていくことができる存在(actor)である。間違うことがあっても自分の人生を選び決められると考えることで、人間の尊厳を取り戻すことができるのだ(113-114頁)

 

尊厳と快適さと幸福感

しかし、尊厳と快適さが両立するとは限らない。たとえば日本がものすごい資源国だったとして、そして常に名君に治められるとして、誰も税金を払わず、社会保障はおろか、あらゆる公共サービスは無料で、日々の生活や娯楽まで政府が保証してくれる、しかし、その代わり政治への参加権はないと仮定しよう。

 

絶対に快適で、おそらく幸福感も得られよう。しかし、自分の生活にも関わりある政治に参加できないのはある種の自己決定権を奪われるのと同義であり、人としての尊厳を失うのだ、と主張する人も現れよう。

 

実利的な幸福と尊厳的幸福があり得ようが、後者はいってみればマトリックスの世界でモーフィアスに無理やり現実の世界に連れてこられたアンダーソン(ネオ)のようなものであり、尊厳はあるかもしれないが、快適な生活とは程遠い。

 

 

幸せになるために自己決定は必要だ。しかし、その決定が正しく行えるとは限らないという。いずれは幸福になれるかもしれないが、そこに至るまでには多くの自己選択が伴うのであり、おそらくは自己選択による失敗と苦痛も伴うのだ。仮に幸福というものがあっても、そこへ至るまでの道のりは辛く厳しいものになる。

 

その覚悟なく幸せを語るのは、むしろ幸せにたどり着けないことを言い訳に、いつまでも自分を甘やかす行為なのだろう。まだ本来の自分じゃないんだから、しょうがないじゃないかと。

 

幸せとは逃避の先にはなさそうだ。幸福になるには自分の選択を受け入れるだけの強さが必要なのだ。

幸せとは甘えや居心地のよさではなく、たゆまぬ努力と行動の先にしかないのやもしれない。

 

しかし、そうであればなかなか幸福までの道のりは遠いなぁ、と途方に暮れてしまう。「ただ阿弥陀如来の働きにまかせて、すべての人は往生することが出来る」とする浄土真宗的な幸福到達論はないものだろうか??

 

浄土真宗 - Wikipedia

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ストレスは克服すべきか、逃げるべきか、耐えるべきか

  

ストレスフリーな状態を望むなるがゆえに 

ストレスの発見によって人はストレスを感じるようになったとはよく言ったものですが、さらに言えばストレスが悪だと思えば、いかにそれを克服するか、もしくはいかにそれを感じずに過ごせるかに思い悩む=ストレスを感じることになるという、やや本末転倒な事態に陥るといえます。

 

ストレスの原因は身体的なものに由来する場合もあれば、心理的要因に由来する場合もあります。マインドフルネスや座禅が昨今はやるのも、人がいかにストレスから解放されたいと願っているかの表れといえるでしょう。社会には多くのストレス源が存在します。そして、われわれはストレスを感じない状態=善なる状態だと思っています。

 

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どうやったらストレスフリーな状態に達し得るかを考えたとき、最もわれわれに苦痛を与えると考えられている存在、すなわち会社からの脱退をわれわれは夢想してしまいます。それゆえ、ノマドやブロガー、フリーランスといった存在への憧憬が生まれるというわけです。しばしばストレスは対人関係から生じる以上、人との関係性の濃度を減らせるそれらの職種への憧れが生まれるのも道理です。

 

もっとも、多くの人がそれらの職種になればなるほど、そこはブルーオーシャンではなく、競争の激しいレッドオーシャンに成り果てるでしょう。レッドオーシャンで稼ごうと思えば、競争に勝つための努力や工夫が必要となり、どの過程ではしばしば苦痛やストレスを感じることもあるでしょう。

 

結局、われわれはストレスから解放されることは難しいと思われるわけで、それがいやであれば、外部が強制的にわれわれをストレスから解放してくれるのを期待するしかありません。さながら、伊藤 計劃の『ハーモニー』の世界といったところでしょうか。もしくは『マトリックス』的世界。

 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

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私はモーフィアスが現れても仮想現実の世界のままのほうがいいと答えたいタイプですので、AIや遺伝子組み換え技術、ロボット、VRの発達によって働かなくてもいいし、自分のみたい夢を見せてくれる世界が早く実現してほしいと心底願ってします。しかし、現実にはまだ世界はそこまで至っていません。生まれるが少し早かったかと少し悔やんでいます。

 

というわけで、残念ながらわれわれはもうしばらくストレスと向かい合わなくてはならない時代を生きなければなりません。

 

では、ストレスにどう対処すべきか。

方法は大きくわけて3つあるでしょう。すなわち、克服する、逃げる、耐える。

 

メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力

今回読んだのはこの本。

 

メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力

メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力

 

 

この本自体は一流のアスリートの名言を紹介して、筆者が仕事でもこの考えは応用できると2、3行で補足している程度なので、時間が有り余っていない限りあえて読む必要があるとは思いませんが、しかし、アスリートの言葉や生き方を読んで思うのは、彼らは苦痛やストレスをある程度前提または許容しているように感じられます。少なくとも、ストレスから逃げるというよりは、前進する過程で必然的に伴うものと捉えていて、克服ないしは耐えることを選択しているように思われます。

 

好きなことをしているから耐えやすいという側面はあるでしょう。とはいえ、夢ないし目標を達成するには並外れた努力を必要とします。その過程では苦痛やストレスを感じる時間のほうが喜びを感じる時間よりも正味で見れば長いかもしれない。

 

そうした強いストレス下にあるにもかかわらず前に進めるのは、そもそもの前提として「ストレス=悪」ではなく、「ストレス=ある程度しょうがないもの」、「ストレス=耐えるべきもの」、「ストレス=努力に際して付随してしまうもの」、「ストレス=超えたらその先には成長が待っているもの」といった、ある種の達観や受け入れがあるのではないでしょうか。

 

この本の副題は「Mental Toughness of Medalist」です。Wikipediaのtoughnessの定義を見れば、タフネスとは強さとしなやかさのバランスが重要で、エネルギーないし衝撃を受け止める上での力を意味する単語といえます。そこには逃げるという概念は含まれていません。

 

In materials science and metallurgytoughness is the ability of a material to absorb energy and plastically deform without fracturing.[1] One definition of material toughness is the amount of energy per unit volume that a material can absorb before rupturing. It is also defined as a material's resistance to fracture when stressed.

Toughness requires a balance of strength and ductility.*1

 

筆者がどこまで意識的にこの副題を付けたかはわかりませんが、アスリートを観察した結果、アスリートはストレスと向き合っていると筆者が感じたからこその副題なのだと思います。

 

ストレスから解放されたいというのはわれわれの見果てぬ夢ではあるのですが、(少なくとも当面は)どの世界にも成長や努力は求められ、どんなことでも楽しい局面ばかりではないとすれば、ストレスは「悪」ではなく、ときとしてそれは避けられず、耐えること(さらに欲を言えば克服すること)も必要という達観が必要なのかもしれないですね。

 

 

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実践のお手本として〜池上彰『学び続ける力』〜

 

池上彰『学び続ける力』

今回は池上彰氏の『学び続ける力』です。

 

学び続ける力 (講談社現代新書)

学び続ける力 (講談社現代新書)

 

 

著者自身が「おわりに」で認めるとおり、本書は教養論ではありません。

 

「教養とは何だろう」ということを、大学生の頃からずっと考えてきました。

(中略)

読み終えた皆さんも感じておられるように、(本書は)教養論ではなく、勉強することの意味や、学び続けることの意味について考える本になりました(pp.183-184)(カッコ内筆者)

 

というか、むしろ池上氏のエッセイと言ったほうが近いかもしれない。

 

教養についての真髄を探ったり、その本質をえぐったりする本、というのは、私にはどうもそぐわないようです。できるだけ、自分がしてきたこと、学んできたことの延長で、背伸びをせずに、お話ししたつもりです(p.184)

 

したがって、池上氏が好きでもないかぎり、ふ〜ん、で終わる可能性は高いと思われます。

 

その意味では、もうすでに何冊もビジネス書や自己啓発本を読んできました、という人にはかなり物足りなくなるはずです。

 

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実践の人、池上彰 

では、本書から得られるものはないかといえばそうではありません。

 

本書から気づかされる点、すなわち、いいことは知ったとしても実践しないと意味がないということを再確認させられます。

 

本書を読めば、池上氏がいかに実践の人かがわかるでしょう。

 

一年間で1000時間のヒアリングマラソン(1日換算3時間)をやったり、記者時代の夜回りの時間に英語を勉強したり、手持ち無沙汰がいやで読書したり、出張の移動時間に本を読んだり、時間を無駄にせずに勉強をしている。

 

池上氏の本のいいところは、われわれはテレビやラジオを通して池上氏を知ることができるという点であり、それゆえ、賛否両論はあれど彼が解説者としてすごい人間であることを知っているという点ではないでしょうか。

 

偉大さを知っている人から言われたほうが納得できる

巷にはたくさんのビジネス書や自己啓発本があり、その多くには何らかのいいことが書いてあります。

とはいえ、その言葉に説得性を感じるには、同じことであっても、氏素性も知らない人よりは、すでにその人が優れていることを知っていて、この人に言われるのなら納得!と思えるほうがいいと思いませんか。少なくとも、私はそう。よく偉そうなこと書いてあるけど、で、お前は何者なの?と、この手の本を読んだときによく思います。こんなことを上から目線で言えるほど、お前はすごいやつなのかと(じゃあ、お前はどうなのだと逆質問されたらぐうの音も出ませんけどね)。

 

その点、池上氏であれば文句がある人は少ないでしょう。少なくとも私よりは素晴らしい人であり、努力を重ねてきたことは疑いない。

 

彼はわずかな空き時間も無駄にせずに本を読むし、ノートの取り方も工夫する。新聞もしっかり読む。

 

読書、記録の取り方の工夫、新聞の重要性、やり方にはいくつかのバリエーションがあり得るでしょうが、これらの行動を推奨するビジネス書や自己啓発本は数多いといえます。

 

しかし、実際にその教えを実践できている人はどれくらいいるでしょうか。

 

同じことをしたら池上氏のようになれるとは限りませんが、彼の実際の人物像を容易に知れるがゆえに、この本に書かれたことを実践したときの到達点のイメージが湧きやすいように思われるのです。すなわち、これくらいの努力をすれば、池上氏に近づけるというイメージが思い浮かべやすい。

 

たとえば、空き時間に本をとにかく読むというのはすぐに出来そう。ショーペンハウエルを引用して、本を単に読むだけではダメと釘は刺していますが(pp.146-150)、そうであれば、ブログというのは気軽に始められるアウトプットの場としてもとてもいいように思います。

 

アウトプットを意識すれば成果も高まるはず。

 

今日の池上氏の活躍ぶりを見れば、ここまで愚直にやり続けることが大事ってことがよくわかる。

 

社会人にはなかなか難しかろうし、池上氏が実践していることの全てが本書に網羅されているわけでもないでしょうが、本書に書かれていることを実践すれば池上氏くらいに、さらに負荷をかければもっとすごい人になれるかもしれないというモチベーションが湧くのではないでしょうか。

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ポジティブ思考かネガティヴ思考かはどこまで気にすべきか?

 

相原孝夫『ハイパフォーマー彼らの法則』日本経済新聞出版社、2014年

今回読んだのはこちら。

 

ハイパフォーマー 彼らの法則 (日経プレミアシリーズ)
 

 

一言で言えば、時間が有り余っているのであれば、読んでもいいのではないでしょうか、といったところでした。

 

本書の目次は以下のとおり。

 

第1章 前向きなあの人が、なぜ結果を残せないのか

第2章 良くも、悪くも、すべては循環する

第3章 期待の新人は、なぜ「平凡な社員」になったのか

第4章 失敗から学ぶ彼らにとって、仕事は「ゲーム」だ

第5章 彼らは、とにかく「小さな行動」を続ける

第6章 彼らは身近な人を支援し、成功を助ける

第7章 彼らは、たまたまの成果を喜ばない

第8章 彼rは、環境が変わっても瞬時に溶け込む

終章 職業人生を終える時、どういう思いを持ちたいか 

 

ここでは、本書全体というよりも、「ポジティブ思考」の良し悪しを少し考えてみたいと思います。

 

ポジティブ思考の良し悪し

「ポジティブ思考」は必ずしも良くないとする点が筆者としてのオリジナリティの一つなのだと思います。

 

まず誰もが思い浮かぶのは、世の中に数多く流布している「成功法則」の類ではないだろうか。成功するための法則であるから、それに適った行動をとれば、好循環に入ることができ、成功に至るはずと普通は考える。

しかし、本当にそうであろうか。成功法則の中で最も多く言われていることの一つは、間違いなく「ポジティブ思考」であろう。

(中略)

しかし、様々な事象を見てみると、ポジティブ思考が必ず良い結果を招き寄せるとは限らないことが分かる。

よく指摘される点としては、失敗した時の受け止め方にポジティブ思考の人とネガティブ思考の人の差が表れるという点がある。

「あの時、別の方法を採っていたらどうなったいただろう?」という、「もし〜だったら・・・」式の考え方、心理学で言うところの「反事実的思考」をポジティブ思考の人はしたがらない。

ネガティブ思考の人は

「もし別の方法を採っていたら、うまくいっていたかもしれない」と考える。この考えは次回への教訓となるため、次のいい結果をもたらす可能性が高まる。ポジティブ思考の人は、「今回採った方法が最善であったに違いない」と考えてやり過ごす。こうした考えは、あまり落ち込まずにすむという点においては有効だが、物事を改善し、次回以降のパフォーマンスを高めたい場合にはあまり役には立たない(25-26ページ)

 

本書を通して思うのは、筆者のポジティブ思考への偏った見方。

 

たとえば、上記の一例はポジティブな人というよりは、単に思慮の浅い人ではないでしょうか。筆者のポジティブ思考の理解の仕方がやや表面的というか意図的にポジティブ思考を過小評価しているように感じられます。

失敗したり叱られたりしても、そこから学べることもあるさ、と考えることをポジティブ思考と捉える人も多いはずです。とすると、そもそも筆者のポジティブ思考の定義自体がやや恣意的というか、すなわち、批判しやすくポジティブ思考を自分なりに定義しやすくしてしまっているように感じます。ポジティブ思考を自分で批判しやすく加工しておいて、それでポジティブ思考はよくないというのはややマッチポンプ的というものでしょう。

 

そもそも、ポジティブ思考をどう定義すればよいのでしょうか。さらに言えばポジティブ思考かネガティヴ思考かはどこまで重要な要素といえるのでしょうか?

 

たとえば本書だと、93ページにポジティブ思考の人は「ポジティブ思考を励行している人などは、「失敗は誰にでもある。早く忘れてすっきり切り替えよう」と思う」人とあります。他方、ハイパフォーマーは失敗から学ぼうとし、経験重視で成長志向であると筆者はいいます。

ここでふと思うのは、他の本だと失敗から学ぼうとするのはポジティブ思考の一つとされることもあるということです。普通であれば失敗して落ち込むところ、失敗から得られることがあると考えたら、それゆえ失敗をむやみに恐れないというのはポジティブ思考ともいえます。

 

さらに筆者はあるアメリカのジャーナリストの著書を引用して、アメリカはポジティブ病と筆者は言って、ポジティブ思考のマイナス面を強調します。

 

ポジティブな思想が社会に深く根付いているにもかかわらず、アメリカの状況、特に経済・労働環境は悪化の一途を辿っている。それはなぜか。「現実を直視しない、直視させない、そういった安易な楽観主義、ポジティブなものの考え方の蔓延こそが、アメリカのビジネスを凋落させ、個人の経済格差をいっそう広めてきた」とエーレンライクは言う(34-35ページ)

 

確かにそういう一面はあるのでしょう。しかし、本書がハイパフォーマーの話をしている以上、パフォーマンスという観点からポジティブ思考がいかに影響するかという視点から分析する必要があるでしょう。そして、そうした場合、果たして本当にポジティブ思考が筆者が主張するようによくないものなのか、疑問が湧いてきます。

 

というのも、経済開発協力機構(OECD)の統計では日本の生産性はアメリカの6割程度にとどまるわけで、結局のところ、社会全体としてみれば、ポジティブなほうがハイパフォーマンスともいえそうだからです。

 

Productivity statistics - OECD

 

こうしたデータを踏まえると、結局のところポジティブ思考な国、アメリカの方がいいといえます。筆者が

 

行動の原動力という意味において、ポジティブ思考かネガティブ思考かは重要なポイントなのか?

 本書の第5章では行動することが大事と説かれています。これはとても大事でしょう。行動すれば何かしらの結果が得られ、その結果を土台にさらに先に進めます。行動+経験にまさるものはないでしょう。当然、行動すれば失敗という結果が出ることもあるでしょうから、失敗を想像すれば行動する気が萎えてしまう場合もあるでしょうが。

 

本書ではネガティヴ思考がなぜ失敗したのかという原因分析に向かわさせ、次の改善につながると言います。ポジティブ思考だと失敗を気にしないので原因を深く探索しないと。

 

しかし、行動することが大事といった場合、その原動力がポジティブ思考なのかネガティヴ思考なのかはそこまで重要ではないのではないという気がしてきます。どういう動機であれ、行動し、経験し、結果を振り返ればいいわけで、ポジティブ思考で失敗からも学べることもあるさ〜と明るく原因分析をするか、次の失敗を回避したいがために原因分析をするかはさほど大きな違いがないというか、もはやどちらでもいいと思うのです。

だから、本書で随所にポジティブ思考が批判されていますが、われわれにとってはポジティブ思考かネガティヴ思考には拘泥せずに何はともあれ行動してみるかという理解で十分と思われます。

 

もしポジティブ思考かネガティヴ思考かで原因分析の質に大きな差が生じるのだとしたら、この違いは重要ですが、本書ではそこらへんは掘り下げておりません。 

しかし、たとえ原因分析の結果に差がなかったとしても、われわれの気持ちのあり方には大きな差をもたらします。仮にネガティヴ思考で十分に高いパフォーマンスがすでに上がっているのだとしても、ネガティヴ思考から生じる心理的なストレスこそ実はなんとかならないか、と多くの人が思ってるんですよね(笑)

 

ネガティヴ思考の人が、ネガティヴ思考だとメンタル的にツライと誰かに相談したとき、ネガティヴ思考だといろいろ考えるからいい結果につながるからいいことじゃん!と言われてもあまり慰められた感じがしないこともしばしばです。

 

パフォーマンスかどうかも重要ですが、パフォーマンスに至るまでのメンタル的なストレスを何とかしたいと思ってる人も多いではないでしょうか?

 

その回答は現在持ち合わせていませんが、とりあえずはポジティブ思考かネガティヴ思考は実はさほど大きな意味はないかもしれないということにしておきましょう。

あなたの夏目漱石らしさを肯定する〜斎藤孝『知性の磨き方』〜

 

知性ある人とは

知性ある人間とは一言で言って仕舞えば柔軟性のある人といえそうだ。

 

固定観念や常識に囚われていたり、杓子定規にものごとを全てにはてはめてしまう人から知性を感じるのは難しいだろう。

 

批判を受け入れられるかどうかは結局自分が柔軟に変われるかどうかに依存するから、批判を受け入れられる人=知性ある人というのは、やはり柔軟性のある人を意味するだろう。

 

今回読んだのは斎藤孝の『知性の磨き方』(SB新書、2017年)

 

知性の磨き方 (SB新書)

知性の磨き方 (SB新書)

 

 

この本の中で知性ある人のロールモデルとして挙げられているのは、夏目漱石福沢諭吉西郷隆盛、西田幾太郎、柳田國男らである。言われずとも知れたいずれも著名な知性あると思しき人々だ。

 

さて、この本をどう使う??

 

自己啓発本である以上、この本から何かを得て自分の人生をよりよいものにしたいところである。では、このロールモデルから誰を選ぼうか?

 

1番迷うのは夏目漱石だ。夏目漱石レベルの知性ある人になれるなら喜んで何でもするさ、と言いたいところだが、本書によれば夏目漱石は相当に精神を病んだ、というか強迫的なまでに不安症の人物のようだ。当時の日本が抱えていることをあたかも自分のことのように考え、悩むわけだから、それはもう当然に精神に異常をきたす。現代で言えば要はメンヘラなのだ。

 

夏目漱石から何を学ぶか。

 

私はそうなのだが、自己啓発本を手に取る人というのは何らかの悩みを抱えていて、しかもその悩みを人並み以上に悩み抜き、悩みに苦しめられ、悩みからの解放を願う人が多いのではないかと思う。

 

本書では夏目漱石が留学先の英国の生活に馴染めなかったことにも言及されているが(34-38頁)、同時期にやはり海外留学をしていた森鴎外はもっと外向的で、ドイツ人とも付き合えたりするわけで、森鴎外だって知性ある人なのだから、悩みに悩む夏目漱石よりも森鴎外になれる方法を教えてほしいと思ったりもする。

 

自己啓発本とはとどのつまり夏目漱石的な人が森鴎外的な人になりたいという願望を叶えるものではないのだろうか。

 

とすれば、なぜに夏目漱石ロールモデルなのさ、と思ったりもするわけである。

 

夏目漱石まで思い詰める人はさすがに少ないだろうが、自己啓発本を手に取る人は多かれ少なかれ自分の中に夏目漱石っぽさ(悩みや不安が人並み以上に気になってしまうところ)を抱えているとする。こんなロールモデル紹介されたって、こんな人になんてなりたくないって思うか、夏目漱石ほどの人でさえ、ここまで悩むんだからって思えるか、はたまた夏目漱石は悩んだためあそこまでビッグになれたんだから、同じ性質を持つ自分だって夏目漱石並みかそれ以上にビッグになれると思うやもしれない。

 

そう考えると悩むことがはたした悪いことなのかというそもそも論が生じる。

 

正直悩みや不安は苦しい。不安があるから行動できずに後で悔やむことも数知れない。こうしたストレスから解放されて人生をよりラクに生きられらようになりたいというのも自己啓発本を手に取る大きな理由の一つだ。

 

世の中でバリバリに活躍してる人は悩みがなかったり、悩む前に行動できたり、悩みを克服できる術を身につけているんじゃないかって勝手に想像する。みな悩んでいるのだろうし、それこそ人並み以上に悩んでいるのだろうが、ドキュメンタリー番組なんかでは悩む姿は映されても数分で、映像ではどんなに優れた番組でも悩みの深さを視聴者が感じ取るのは難しい。

 

それゆえすごい人はウジウジした悩みとは無縁なのではないかと勝手に想像して、彼我の格差に悩むという悩みの上塗りをしてしまう。

 

だから、夏目漱石でも悩んでいたのであり、それこそメンヘラ並みに悩んでいたと知ることは我が身を労わるうえで有益なことといえそうである。

 

悩みとどう対峙する?

 

ただ、やはり悩みをどう克服して行動するのか、というのは自己啓発本の読者の関心事だろうから、メンヘラ夏目漱石がどうやって、一歩を踏み出せるのか、どうやって感情をエイやとコントロールできたのかというのは大いに知りたいところだ。作家になったということは、何かの文章を書いて人に見せるというプロセスがあるということだ。不安症なら自分の文章なんて、とかどうせ持ち込んだって断れるに決まってると勝手に想像を膨らませて尻込みしてしまうものだ。

 

夏目漱石は故人だからもう彼に直接聞くことはできないが、不安に苛まれたとき彼がどう苦しみ、苦しみながらも前に進んだのかがとっても知りたいと思うのであった。

 

悩みにとことん向きあうのが一つの解決法(もっともそれで悩みがゼロになるわけではない)だとすれば、そもそも自己啓発本なんて読まなくていいんじゃない?ってふと思ったりもする。自己啓発本で悩みを軽くしたいと思うのは、悩みや不安がストレスや苦しみだからであり、その苦しみから解放されたいからこそ、自己啓発本を読むのだ。

 

 (特に精神面で)ラクをしたいと思って自己啓発本を手に取るが、われわれは悩みとどう対峙すべきなのか。悩みから逃げるのか、悩みを無視するのか、悩みに立ち向かうのか、悩みを克服するのか。

 

悩みとどう対峙するかが自己啓発本の永遠のテーマの一つであるような気がして、そして本書の夏目漱石のエピソードは、逃げたり無視するのではなくとことん向き合えという。それが辛いから自己啓発本を読むのだが、そうしたラクな道を選ばず面と向かって対峙したほうが知性ある人間になれるのやもしれない。何事もラクな道はないようだ。

 

さて次は何を読もうか

山崎将志『残念な人の思考法』〜上から目線な物言いにカチンとくるなら痛いところを突かれているということだ〜

 

 

1.なぜこのブログを?(再掲)

 

最近本屋に行けばたくさんの自己啓発本が平積みされているのを目にするだろう。

 

かくいう私もそうした自己啓発本の何冊かを手に取り、しばしば読んだりする。

 

どの本もなかなかいいことを言っているなぁ、と思う。本の内容を実践したいなぁ、と思う。他方で、同じような内容を前にも読んだことがあるなぁ、とも思ったりする。こういう経験、皆さんされたことないだろうか?

 

少なくとも私はよくある。著者やタイトルが変われど中身はそれほど先行書と変わらなかったりする。それにもかかわらず新著がベストセラーになったりする。

 

もちろんしっかりと統計を取ったわけではないし、すべての自己啓発本を読んだわけではないから、私の感想が的外れの可能性も大いにある。

 

が、とりあえずそれは一度脇に置いておいて、私の直感が正しいと仮定しよう。

とすると、なぜにそもそもこれほどまでに自己啓発本が巷に溢れているのか、なぜに同じような内容なのか、なぜに同じような内容にもかかわらず繰り返し出版されしばしばベストセラーになるのか、なぜにわれわれはそれほどまでに自己啓発本を手に取ってしまうのか、なぜに自己啓発本に感銘を受けても実践できる人とできない人がいるのか、なぜに実践しているはずなのにいつまでも心の迷いが晴れないのか、といった様々なギモンが首をもたげてくる。

 

ふとそんなことを考えてみたくなった。もちろんすでに考えた先人たちもいるだろうが、私自身も考えてみようと思うのだ。

 

それには、まずは自己啓発本を読んでみるべきだろう。

 

しかし、せっかく読んでも自分の中だけにとどめておくのはもったいない。自分の中で咀嚼するにも備忘録は必要だ。というわけで、自己啓発本を読みつつ、読んだ本の中身や感想をブログという形式でまとめていこうと思うのである。

 

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 2.山崎将志『残念な人の思考法』

 

今回は山崎将志氏の『残念な人の思考法』だ。

 

残念な人の思考法(日経プレミアシリーズ)

残念な人の思考法(日経プレミアシリーズ)

 

 

 著者は外資コンサルタント勤務後独立したビジネスコンサルタントだ。「人生のプライオリティは、まず仕事である」という信念のもと、本書は執筆されている(6頁)。

 

人生でのプライオリティは、まず仕事である。

人生には仕事より家族、趣味、あるいは夢が大事だ、と言う方もいるかもしれない。しかし、家族も、趣味も、夢も、仕事がうまく回っていることが前提で成り立つ。さらに言えば、仕事で成功すればするほど、それらはより充実する。

確かに、仕事で逆境に苦しんでいても、家族の愛に包まれている生活や、趣味に生きがいを求める姿がテレビや雑誌で取り上げられることがあるが、それはレアケースである。テレビドラマが面白いのは、現実離れしているからであり、現実離れしたことだからこそニュースのネタになるのだ(6頁)

 

この時点で、SNSやYahooニュース等のコメント欄には否定的な記事が寄せられそうだ(実際アマゾンのレビューは決してよくない)。

 

実際、世の中には仕事から意識的に離れた人もいる。

 

いばや通信

 

坂爪氏と同じ生き方をせよ、と言われたら私はかなり逡巡するし、ほぼ100%の確率でそうしないのだが、とはいえ、この発想は全く私自身考えもしなかった。世の中には面白いことを考え、そして行動に移す人がいる。坂爪氏に生き方にも賛否両論あろうが、人と違うことを考え出して実際してみる人を私は素直に尊敬する。というか、そういうことを考えつかなかった己の発想力の乏しさが悔しい。

 

閑話休題。話を仕事にプライオリティを置く著者に戻そう。

 

3.本書の構成と気になるところの抜粋

本書の目次は以下のとおりだ。

 

1章 残念な人はつくられる

2章 二流は掛け算で考え、一流は割り算で考える。

3章 残念な人は「塗り絵」ができない

4章 機能だけを磨いても二階には上がれない。

5章 人生を残念にしないためのプライオリティ

 

巷に溢れる自己啓発本の中で敢えて手に取るべき必読の名著とは思わないが、それでもいろいろハッと再確認させられるところはある。

 

本書は「残念な人」の症状の紹介とその改善を目指した本だ。

 

仕事にプライオリティを置いている人すべてが、それに満足するだけの成果を得られているとは限らない。

その代表格が、「残念な人」である。ちゃんと学校を出て、入社試験もクリアした。役に立つ資格も持っている。そして、やる気も十分あり、夜遅くまで懸命に働いている。

しかし、結果が出ない。そんな人たちのことだ(7頁)

 

私は残念な人の有資格者だ。私の経歴を話せば半数以上の人からはエリートですね、と言われる(もっともどういう場で話すかにもよるが)。一般的に上位校とされる大学を卒業後、単位取得退学ではあるが、大学院の博士課程を出て、大手とされる民間シンクタンクで働いている。会社名自体を知る人はさほどいないだろうが、誰もが知る銀行グループの名前を冠しているため、会社名や仕事内容を言えば、すごいところで働いているんですね、となる。業界的に多忙を良しとする空気もあるので、平均よりは夜遅くまで働いてると言ってよい。

 

私は残念な人の完全なる有資格者だ。それゆえ、本書を読むと自分は大丈夫と思うところもある一方、むぅ、と唸らざるを得ないところもある。そう、有資格者というよりはしっかりと残念な人試験に合格し、残念な人にめでたく認定されうる人物なのである、私は。

 

残念な人は同時に「もったいない人」だと氏は言う。「少し考え方を変えればうまくいくのに、本当にもったいないと思う。」(11-12頁)

 

別に本書だけのオリジナリティがある主張というわけではないが、プライオリティが大事、実行が大事ってことを否定する人は少ないだろう。

 

残念な人とは、プライオリティ付けの「正否」「適否」を考えない人、あるいは見誤る人のことなのである。この点を改善すれば能力を十分に発揮できるようになる(19頁)

 

ノウハウは公開してもまったく問題はない。なぜなら、大変なのは「実行する」ことだからだ(76頁)

 

幾度もチャンスを与えられていながら、最後まで行動を起こす勇気を出せない人がいる。他人の成功を聞いて、「それは、俺がずっと前から考えていたアイデアだ」と周りに妙な自慢をしたり、「あのときに行動しておけばよかった」と未練がましいのはよろしくない。

男女の恋愛と同じで、とりあえず行動に出るべきである。

(中略)

実行してみて、「どれだけ頑張っても駄目なことがある」と自分の仮説の間違いを知ることは、行動における最大の収穫である。ある時点で見切り、損切りすることは、成果をあげるためにきわめて重要な行為といえる(135頁)

 

そう、差がつくのは何が善かを知らないからではない。知っていても実行できるかどうかの差である。これはわれわれ自己啓発本を読んで成長したいと思っている人誰しにも当てはまることだ。大概の自己啓発本には実践すればプラスになりそうなことが書いてある。極論何冊も買わずに、たまたま手に取った一冊の本だけを実践しても人生はより良いものになるだろう。ただ、問題は実践が難しい。繰り返し買ってしまうのは、毎年年明けに今年こそは頑張ろうと抱負を定め直しているのと同じようなものだ。前年にやっておけばよかっただけなのだ。しかし、なぜに実践できないのだろう。どうすれば実践できるようになるのだろう、どうすれば続けられるのだろう。うーむ。。。(−_−;)

 

PREP法(「結論を示し(Point)、理由を述べ(Reason)、具体例を述べ相手を説得へ導き(Example)、再度結論を示す(Point)」(125-126頁)といった賢く話すための方法論なども載っているので、気が向いたら実践すればいいと思うが、まずはプライオリティを考えるという理論を優先したほうがいい。

 

「貯金が一億円あったらやらないことは、やらなくていいことである」(131頁)のように金額の多寡は違えど他でも聞いたことがあるような内容もある。自己啓発本はあまり引用や注をつけないからはっきりしないだけで、かなり人口に膾炙する話なのだろう。

 

任せ「られ」ない人がいる。

任せ「られ」ない、とは二つの意味をこめている。ひとつは仕事を頼む相手として、任せるのに不十分であるということ。もうひとつは、人に任せるのが下手な人、ということである(139頁)

 

紙幅の多くは前者の任せるのに不十分な人向けに割かれているが、私は任せるのが下手な人という後者の意味で任せ「られ」ない人である。

やりがいのある仕事なら任せやすいが、中には事務作業的なモチベーションが上がりにくい仕事がある。そういう場合は任せるのに遠慮してしまったりする。また、思い当たる人も多かろうが、任せるより自分がやったほうが早いと、結局自分で引き取ってしまうパターンである。自分でやったほうが早いには、仕事そのものが自分がやったほうが早い場合もあるし、指示出しの内容を考えるのが面倒、頼むのが申し訳ないという心理的コストを避ける場合も含まれる。最近は意識的に任せようとしているが、「エイッ」と心の中で気合を入れないければならない。わかっていてもなかなか治せない自分の悪癖である(⌒-⌒; )

 

やりたくないことを消していくと、やりたいことが残るような気がするし、やりたくないことの裏返しがやりたいことだったりもする。

(中略)

加えて、目標を「紙に書く」というのもポイントである。頭の中でぐるぐる思いをめぐらせているだけでは、考えていることにはならない。文字という形ができて、初めて考えは具体化するのだ。文字で表現できないということはわかっていないということ。頭の中のイメージと、文字で表現された内容がしっくり来ないのであれば、検討が不十分だったということ(194-195頁)

 

人生のプラオリティを考え、そのための行動の前提として、筆者は「やりたくないこと」を考え、それを書き出すことを推奨する。やりたいこと、やりたくないことを考える際には上述の「1億円」のたとえも役立つだろう。1億円あったらやりたくないことは、やりたくないことリストに加えていけばいい。

 

ギャンブルで”勝つ”と怖くなる金額が、あなたの限界である

友人がマカオに行ってカジノに勝ったという話を聞いた。いくら勝ったのかと聞いたら五〇万円だという。勝ちすぎて怖くなりそこで止めたそうだ。本人は勝って帰れたからよかったという。確かにそうなのだが、私はもっとやればいいのに思った。

ギャンブルの勝ち方の話をしているのではない。壁は自分で作ってしまうという話である(214頁)

 

本書全体のストーリーからすると唐突感のある記述だが、筆者が面白いと思ったから入れ込みたかったのだろうし、確かに、と思い当たるフシもある。軽く筆者の自分自慢が入っているが、そこには目をつぶろうw


無限の可能性、とまでは言わないが、案外やってみれば出来ることのほうが世の中多いのではないか?誰も制約していないのに、自分の頭の中で勝手に自分はこの程度とか、やらない理由を探している。実際に失敗は恐い。それこそ途中まで成功していたら、これまでの努力が泡と消える恐怖に苛まれる。ゼロだったとしても、失敗の内容によっては、恥をかいたり、いくばくかの出費を伴ったり、何らかの心理的、時間的、物質的なコストを支払わなければならない。結局壁を越えられるのは自分しかいないのだ。誰しもが壁を作るのかもしれないが、その壁の中の面積が大きければ大きいほど、より多くのことにチャレンジできるのだろうし、成長もできるのだろう。壁といえば、進撃の巨人だが、確かに生存が許された面積が小さければ小さいほど人間も小さくなってゆく。

 

仕事第一なんて、昭和的で残念な人ですね、と著者を批判することはできよう。しかし、平成においてさえも、人生の質をちょっと上げる程度だったとしても、プライオリティや実践というのは役立つことだ。やや高飛車な言い方にカチンとしている私のような人は、逆説的に筆者が指摘するようなことを本心では気にしてるということかもしれない。そうでなければ、気にもならない。本心では改善したいと思っているのだ。そうであれば、本書の枝葉に突っかかるのではなく、ちょっとでもいいから役立つと思ったことを実践したほうがいい。筆者が仕事人間で昭和的だとしても、なぜにそれが自分が実践しなくていい言い訳となり得るのか。

 

しかし、本当に実践は難しい。なぜに人はやらない理由を見つけて自分を正当化するのが得意なのに、そのエネルギーを実践に振り向けることができないのだろう。。。(´ω`)

 

さて次は何を読もうか。