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自己啓発本の森を歩く〜カーネギーを超える本はあるのか??〜

同じような自己啓発本がなぜ多いのか?自己啓発本は何を教えてくれるのか?自己啓発本はなぜ売れるのか?なぜ自己啓発本の内容を実践できないのか?自己啓発本を読みながら考える

自分らしく生きるための権力論

 

 

幸福になるために必要ながら、構築するのが難しいのが人間関係 

 

 

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個人の幸福感は少なからず人間関係の満足度に左右される。幸福感と言うと大げさであれば、日々の生活や仕事での快適さは人間関係によって、良くもなれば悪くもなる。日々のストレスの多くは人間関係に由来すると言ってもいい。アドラーは人間関係が幸せになるためのキーと言っているわけだから、それこそ人間関係をいかに形成するかは非常に重要な問題と言える。

 

しかし、この人間関係の構築というのが厄介だ。何が最も厄介かと言えば、相手の脳みその中身が読み取れないからだ。相手とコミュニケーションを取るが、相手の意図が発言として常に表出されるわけではないし、表出された言葉が全て相手の本心とは限らない。意図の伝達について、岡本は以下のように整理している。

 

ことばによる発話によって話し手から聞き手に何かが伝わったときに、半しての意図をどの程度示すかに関して、意図が明確な場合から、全く意図がない場合まで色々なケースがあるだろう。それを次のように分けてみる。話し手が心に抱いたことが聞き手に理解される場合に関しては、次の四パターンがある。

①表現通りにはっきりと 分からせる(表意を意図明示:伝達意図、情報意図あり)

②推測を通じてはっきりと分からせる(推移を意図明示:伝達意図、情報意図あり)

③それとなく示して推測させる(隠意を暗示:伝達意図なし。情報意図あり)

④伝えるつもりがなかったのに、伝わってしまう(見破られ:伝達意図、情報意図なし)

話し手は自分の意図をこのように色々に捉えているし、聞き手も話し手の意図をいろいろに解釈するだろうというわけである。

(下記書籍、102-103頁)

 

悪意の心理学 - 悪口、嘘、ヘイト・スピーチ (中公新書)

悪意の心理学 - 悪口、嘘、ヘイト・スピーチ (中公新書)

 

 

相手の意図が言葉ですべて表明されるのであれば人間関係はだいぶ楽になるに違いない。ギスギスした関係になる可能性もありうるが、相手が何を考えているのか深読みする必要はなくなる。相手が何を考えているか正確に読み取れず、本心では自分のことを嫌っているのではないかとか、いろいろ勘ぐってしまうからこそ人間関係は時に重荷になるし、そこから離れたくもなる。他方で、どんな相手・状況でもああだこうだ考えずに自分の立場を貫けるなら、それはそれで楽に人生を生きられよう。

 
自分らしくいるために

はてブロもそうだが、最近は自分らしく生きたいという意見が多い。

 

私も自分らしく生きたいと思う。できることなら。

 

そもそもどういう状態が自分らしいといえるか、という根本的問題があるが、とりあえずここではその問題はさておいて、人間関係構築は大変という大前提を踏まえた上で、どうすれば自分らしく生きられるのだろうか少し考えたい。

 

自分らしく生きるためには、相手から自分らしく生きることに同意してもらわなければならない。しかし、全ての人が自分らしく生きようとすればかならず摩擦が生じるだろう。摩擦が生じた場合、どちらの自分らしさを優先するか決めなければならない。

一つはそもそも摩擦を避けるために完全なる孤独を選択することだ。摩擦は人間関係によって生じるわけだから、人間関係を断てば自ずと摩擦も消滅する。

人間関係を維持しながら自分らしく生きるにはどうしたらいいか。上にも書いたが、そのためには相手から自分らしく生きることに同意してもらわないといけない。特に自分らしく生きることが、相手の自分らしく生きることを阻害する場合、自分が自分らしく生きることを優先してもらわないといけない。

そのためには権力関係において自分が相手より優越していることが必要である。別の言い方をすれば、相手が自分に依存しているときに、相手からの譲歩を引き出せる。相手がこちらを必要としているのだからこそ、こちらのワガママを聞き入れてくれるのである。

たとえば、売れっ子作家や芸術家のようにその人でないと出来ないことがあると、相手は自分に頼らざるを得ないため、その人は自分らしさを貫きやすくなる。

 作家や芸術家には破天荒な性格の人がいて、それはだいたいその人の天才性を示すエピソードとして語り継がれるが、その人がそうした振る舞いを貫き通せたのは、発注者がその人以外に頼める人がいないから、様々な理不尽を耐えたのである。その作家や芸術家が自分らしく振る舞えたのはそれを相手が許容せざるを得なかったという権力関係が存在することを忘れてはならない。

 

とすると、自分らしく生きたい人がどうすればいいかといえば、その人に頼まざるを得ないような能力や価値を獲得するか、自分より劣る人たちで構成されたコミュニティで生きることを選択するかのいずかになろう。前者のほうがより前向きとも言えそうだが、鶏口となるも牛後となるなかれ、という諺があることからすれば、後者の生き方も十分検討に値するといえそうだ。

 

前者を選びたいのなら、余程の天才でもない限りかなりの努力が必要となる。したがって、もし、自分らしく生きたいという意味が、嫌なことや大変なことはしたくないという意味であれば、その人は自分らしく生きたいという願望をさっさと諦めるべきである。

 

 

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